昭和45年〜昭和50年
この頃,鮎と言えば「なぐり(ころがし)」漁が全盛で,友釣りをする人はほとんどいませんでした.今は故人
となった同じ職場の先輩が友釣りをしていたので,言われるままに始めたのがきっかけでした.場所は那賀川中流
鷲敷から下流の持井までで,休日には鍋と味噌を持参し,他に誰もいない河原で酒宴を開き,トンビに囮をさらわ
れたり、暑くなれば裸で泳いだり、のんびりと釣ったものでした.
竿は五三竹を三本継ぎにした竹竿を使っていましたが,やがてグラスファイバ−の竿を持つようになりました.こ
れは手元でやっと握れるくらいの太さがあり,わずか7mくらいの竿でしたが,終日使うと明くる日は腕が痛くなる
ほどの竿でした.
カ−ボン竿が登場したのは昭和50年ころだったでしょうか,月の給料と変わらないくらい高価な竿を羨望の眼で
見ていたものでした.現在,いくら竿が良くなっても,あの竹竿での鮎の感触は再現できていないようです.強烈なあ
たりと,取り込むまでグルグルと手元に伝わってくる感触は今も手元に残っています.
仕掛けは逆バリは使わず,鉛筆に巻つけた銅線で自作した鼻環に蝶々の針だけの吹き流しという単純なもので、
釣り場は瀬に限られていました.竿を立てて下流まで囮を送り込むと竿を寝かせて徐々に引き上げ、囮が正面まで
来ると再び竿を立てて囮を下流に送る繰り返しの釣りでした.
鷲敷の氷柱観音前などは10匁の鉛を囮の鼻先に打ち、激流の中に送り込んでから10秒間が勝負でした.流れに浮き
上がるか、底に掛かるか、がつんと尺鮎が来るか、囮に余裕が出来た時の楽しみの一つでした.鮎が掛かれば激流を
わ-わ-叫びながら下るのは今も変わりませんが、0.6号通しの仕掛けを何度も切られ、手元に残る鮎は少なかったけ
れども童心に戻り、男の子の遊びを堪能していました.
1日に10匹も釣れば満足し、20匹も釣ろうものなら数日間は職場で自慢が出来ました.そんな友釣りをしていたある
日、大阪から来たと言う若い釣り人が誰も見向きもしないトロ場で一人釣り始めました.竿を立てて釣る彼を異様な
眼で見ていた我々の前で、彼は入れ掛かりを演じて見せました.その強烈な印象は今だに脳裏に焼き付いています.那
賀川水井橋の上流、倉野の河原でのことでした.
昭和51年〜昭和60年
逆バリと言うものを初めて見、スマルのような3本イカリの異様さに、瀬で釣っていた皆んなが集って来て驚きの声
を上げました.我々が1日かけても釣れない数の鮎を彼はわずか1時間あまりで釣り上げたのでした. 後に知った「泳が
せ釣り」がまさにそれでした.
「泳がせ」の原理も解らないまま、見よう見真似で仕掛けを作り、竿を立ててトロ場に臨んでも根掛かりばかりで全
く釣れず、いつの間にかまた瀬の引き釣りに戻っていました.
この10年間は職場も変わった関係で、一人で釣行するようになりました.その間に周囲ではカ-ボン竿に細糸、逆バリ
に3本イカリが主流になりつつあったのを知らないわけではなかったのですが、相変わらず瀬の引き釣りばかりをし、
進歩はありませんでした.
昭和61年〜平成元年 ダムの影響もあってか那賀川で鮎が次第に釣れなくなり、勝浦川へ釣行するようになっ
たのはこの頃でした. カラフルなチョッキと同じクラブのマ-クの釣り人の中に、首にタオルを巻き、ステテコに麦わら
帽子のオッサンはそれこそ異様に見えたことでしょう.
この間に、上手な人の横に並び、必死で「泳がせ釣り」を盗み取ろうとしました.師匠のいない私にはそれが最良の方
法だったのです.自然に手首が固定し、鮎を思いのままに泳がせるようになるには数年かかりました.
平成2年〜
「泳がせ釣り」が出来るようになると(と言ってもまだまだ未熟ですが)俄然友釣りが面白くなり、好きな磯釣りも冬場
だけにし、夏場は毎日のように友釣りにでかけるようになりました.
放流鮎の多かった(過去形です)この頃の勝浦川は川を横切る度に無数の鮎が走るのが見られたものでした.「鮎はいる
けど釣れない」誰もが経験している壁に突き当たったのもこの頃でした.全国に名の知れた人はバンバン釣っているのに、
どうして私だけがと毎日悩みはしませんでしたが、腕の違いと割り切ってじっと我慢の釣りが続きました.
鮎はおり、いたるところがポイントのような勝浦川今山では微妙な囮操作で決まるのは解っているのですが、それだ
けの技量のない私は仕掛けを工夫するしかありませんでした. 人と違った仕掛けなら鮎も違った泳ぎをし、ひょっとした
ら私だけが入れ掛かりになるかも知れないと.
そしてその夢はちょっとだけ実現したように思います.試行錯誤の末に落ち着いた仕掛け
でコンスタントに釣れるようになりました.
30年前ののんびりとした釣りとは大違いですが、まだしばらく鮎との付き合いは続きそうです.
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